言語に向き合うと、今まで自分が押し殺していた感情や不満といった、独りよがりでネガティブなことまで蓋を開けてしまう。
蓋を開けた事柄によっては、中身が空っぽなこともあった。全てを言語に頼ろうとする人らへの不満が滲み出ていると感じた。
今でこそ意見は分かれるけども、私は「見て盗め」が好きだ。見て盗まないと感じ取れない空気・緊張感・イレギュラーな対応がある。これらは言語に落とせないし、体感でしか学べない。
言語として綺麗な言語化ほど、体感でしか得られないものを削ぎ落としてしまう。言語ばかりを求める人らがイレギュラーな事がやってきたときに本気で耐えられなく理由は、体感を疎かにしてきたからだと私は浅ましい感想を抱いた。
言語化でテキストコミュニケーションが出来るようになるのは重要なことだが、テキストコミュニケーションだって今応じている会話だけを見てはならない。テキストコミュニケーションにも体感で感じ取れる違和感や感情の動きがある。やはり体感を疎かにしてしまうと、後で牙を剥かれてもやむを得ない。
体感を蔑ろにすると環境適応できないし、言語を蔑ろにすると環境適応してはならないことは何かを把握できない。
私は決して言語を悪いものと見做しているわけではない。言語も必要だし、言語以外のことも必要だ。
話題は変わるが、私は自分が同人作家でよかったと思った。
売れる・売れないや、読者に受ける・読者に受けないを考えることも必要だが、私はもっと自分が押し殺してしまった感情や不満と向き合うべきだった。
他の作品が売れるためにやってきたこと、読者に受けるためにやってきたことがあって表現の在り方が成長した傍らで、私は他の作品を進んで手に取らなくなった。自分が作品を作っているからなのか、時間が足りないせいなのかどうかはイマイチわからないが、言語化するとしたら私の中に「私の好きな物を無視しないでほしい」という独りよがりな感情が芽生えていた。
言語化して綺麗な言葉に落とした創作論ほど浸透しやすいし周りにもわかりやすいと思うが、創作論に縋りすぎてしまえばしまうほど、読者の体感が蔑ろにされてしまう。確かに読者によっては体感を求められて不満を抱く者もいるが、私が言いたいのは体感を求める読者だっているというだけの話であり、体感を求めない読者を排除しろとは言っていない。
第1話をポエムにするなというなら、そのポエムがこの先のストーリーでどう絡むのかワクワクしながら読む読者もいると言いたい。
第1話は盛り上げないと読者が付かないというなら、第1話は読者の心を過剰にかき乱さずスッと入ってくるものが好きだと言いたい。
読者に解釈をぶん投げるなというなら、読者のことを信じてほしいし、読者の想像力及び妄想力を信じてほしいと言いたい。
言語に向き合うことは、私が押し殺していた感情や不満と向き合う心苦しい時間だ。
しかし、私自身と向き合ったことの中で最も苦しかったのは、前述にあることではない。最も苦しかったのは、褒め言葉を言うこと・言われることに対する私の独りよがりな感情だ。
周りに合わそうとするうちに、少数派は私にすぎないと考えるうちに、私自身の葛藤を押し殺してしまった。だが、葛藤を言語に落としてしまうことは、難しい感情に対して大事な何かを削ぎ落としてしまうことになる。その結果、より独りよがりな感情に見えてしまうため、自ら口を閉ざしてしまうのだろう。
褒め言葉を言うこと・言われることに対する自分の感情を削ぎ落として言うため、伝わらないものがあるのは承知の上だ。
褒め言葉を言うことは、相手をつけ上がらせて対等に関われなくなるから嫌いだ。相手が元気になったり、調子に乗った勢いで進めるようになることはとても嬉しいが、私を下と見做すことや私を雑に扱うことは微塵も求めていない。
褒め言葉を言われることは、私の不満や問題を隠そうとしたり、言うことを聞かせるための甘言だから嫌いだ。コントロールできないと気付いたらすぐ暴言に変わってきた。他人をコントロールするために褒め言葉を使わないでほしい。
他人を褒めることや褒められることは、行動や姿勢など体感でも充分だったことはたくさんあるはず。
言葉を使うべきかどうか、他の何かで証明するかどうかは、可能なかぎりは自他ともに各々のベースで考えたい。
私も、私が誰に対して褒め言葉を言うのか、誰から褒め言葉を言われるのかを理解して解釈したいところ。
言語を蔑ろにしてきたものがいざ言語に向き合うと、とても悲しい。体感を蔑ろにした場合も、同じような苦痛を味わうのだと思う。
知識を得ることは喜びだけが伴うわけではない。時に苦痛を味わうことがあっても、大きな成長に繋がることを信じている。