最低限の選民意識は必要

選民意識を持っているからより好みが激しいととか、話しかけられるのを待つ姿勢とかではなく……「治安の悪い場所は気を付けよう(条件が合わない限りは近付かないようにしよう)」レベルの話やね(´・ω・`)

クリエイティブなオタク分野は特に。どこの世界線を前提に話しているのか身構えているのか理解できないことが多いし、中には1ミリも理解したくないこともある。(棲み分けってそういうことねと思った)

人との距離が近い展開が増えたことへの弊害やね。ものすごく斜めに構えられても相手は全然そんなこと思っていないし「何なんだその前提は」ということ、本当に多い。

感情論にもロジックがある

「なぜその感情に至ったのか?」を考えて、何をしたら良いのかを解いていくから、感情論にはぶっちゃけロジックそのものがあるケースが多いよな(´・ω・`)

感情論は論理的でないと断定しない方がよいね。柔軟に吸収がよき。

長年気付かなかった「音」からの文章の理解

元より文章を書くのは上手くないが、文章を正しく読まないと、文章を正しく書かないとという気持ちに囚われていた頃の文章を読み返すと、好きでない癖が付いていた。両者ともに過去の文章を修正してみると、文章を書くことが上手くなっていた。

文章を書くのが上手くなった理由は、文章の組み立てが上手くいかないときや、文章を読み返すときに、脳内で音声を再生して文章を確認するようになったからだ。

脳内で音声を再生するようになったきっかけは、私がトーク用の音声合成技術に触れたからだろう。

音声合成技術を使って、私が書いた文章を再生してみるようになってから、句読点の使い方や文章構成への理解が深まった。私が書いた文章は、最終的に音声ファイルに書き出し、就寝前、掃除中、長時間の移動中に確認がてら聴いた。文章の繋がりが特に気になるところがあれば修正箇所を書き留め、文章を修正したあとにはもう一度音声ファイルに書き出し、確認することを繰り返した。

私は文章を国語的に理解する方から入るのは苦手だが、音から理解しようとすると飲み込みが早かった。何か苦手なことがあったとしても、苦手なことは得意なことを成長させるきっかけを生んで、私自身の強みにしてくれることを強く感じた。

脳内で音声を再生しながら文章を書くと、以前よりも他人に読ませる文章を書けるようになった。ちなみにこの記事も、脳内で音声を再生しながら執筆している。

今後は音を意識して、文章を書こう。

ただし、文章を書いて気を休めるときや、気持ちを吐き出すときには、脳内で音声を再生させずに書くつもりだ。正しい文章を書くのがよいと囚われすぎないよう、環境ごとに合わせて文章を書こう。時折意識を遠ざけながら文章を確認しよう。

悪文にも悪文の良さやあるし、悪文から「好き」を見つけることもある。過去の文章の修正中に、私自身の癖で生まれた好きな悪文を見つけたとき、少しだけ心が躍った。

心躍る悪文を活かしながら文章を書き直せるようになったことも、たまらないほど嬉しかった。

ブログの運用はこのままで

いろいろ書いちゃって、ブログの運用をどうしようかなと思うこともあるけれど、むしろ何かの拍子に気持ちをブワーッと書き出して晒してもらうためには今みたいな運用も必要やね。

黙って自分の考え事を言わないってことだけじゃなく、私が私自身の不満を濁したり、つらいことやか苦しいことを無意識に隠そうとしてしまうことが多い。

心の傷を抑えようとするのはその場で反射的に暴言を吐かないためだけど、結構ひとりで溜め込む。

家族にも見せたくない&心配かけたくないと思うのもあり、余計にひとりで抱え込んでしまいがち。
友人にポロッとこぼすことはまああるけれど、あまりこう…ね、しんどいからね苦笑

あとは、ブログに書き起こしてみることで客観視できるのがいいね。私自身がトラブルメーカーなのかなと少々自信がなかったのだけど、これまでなかなかひどい言葉を言われてきたし、目の前で言葉で殴り返さなかっただけでもよく頑張ったと思う。

まあ全部過去の話だから、今はどうだか知らんけど。普通に今も関わっている人もいるし()

今変わってたら別に過去のこと持ち出さなくていいでしょうに。むしろ持ち出すというのもよろしくないし、過去は今の判断材料くらいでいいでしょう。

他人の過去のことをあれこれ言ってたら、そのうち自分の過去も許せなくなるだろうし、嫌な話そうやって自ら首を絞めていくことで他人に謝れない人間の出来上がりーってなるわ()

ブログの整理疲れたー。寝よう寝よう。

結局のところの考え方

「過去の傷を掘り起こすのは深いけれども、現在進行系で人がどうだこうだは知らん」というスタンスではあるかな。

過去に受けた私の心の傷はあくまで私自身の問題なので、過去の当事者とは戦うが今は知らんって感じ。それに、過去は過去なので(´・ω・`)

今から引き摺り下ろすぜー!は、私個人がやるのは滅茶苦茶嫌いで、何なら私のポリシー違反ではある。他人の場合は、もちろん正当なものもあるので、それは認められるべきことだと思う。

とりあえず今は知らんよ。ほとんど関係ないし、そんな他人に興味ないから、相手にとってもいい意味でどうでもいい(´・ω・`)

自信が抉れたときのこと

友人から「昔会ったときはつらそうだったね」と言われたとき、私は昔に「自信が抉れた」と言っていたことを思い出した。

どうやって回復したのかと言われたけど、当時のことはあまり思い出せない。話題に出て「そんなこともあったな」と思ったくらい。

自信を失った・自信を奪われた・自信が欠けたという言葉だとなぜかしっくり来なくて、自信が抉れたというのが最も適切だった。

自信が抉れたところには、ボンドをチューと注いで固まった、ふにゃふにゃ物質が詰まっている。なので、変な方向に曲げても痛くはない感じ。

今までは自信が抉れたというのを深刻な状態だったと捉えていたかもしれないけど、当時の詳細を忘れるほど回復した今は「自信が抉れた」でとてもよかったと思った。

抉れた自信に合う型なんてないので取り戻せはしないけれど、新しいものを注いで修復することはできる。

自信を失ったとき、奪われたとき、欠けたときには、取り戻すことはできるけれど、取り戻す先が問題の人らでなくとも無関係な人から取り戻すこともできる。

当時、問題の人らのことはものすごく反面教師にしていた。他の人のことを当時の自分に重ねて「絶対に問題の人らと同じことをしてたまるか」という気持ちを抱いて、相談に乗ったり話したりした。

今は周りにそんな人らはいないので、友人にはとても前向きに話せた。

その後の2024/10/25

最近怒ってばかりだったのだが、自信が抉れたはずのところに響くような痛みはない。

昔はなぜか、立て続けに酷い言葉を目の前で言われることが多かった。その言葉は今でも忘れない。

ネット監視されながらお前はエンジニアにはなれないと言われたときのこと。

やっていることどころか言葉すら届かずに、あなたはデザインができないと言われたときのこと。

話が通じないまま、仕事のプラットホームで掲載されている絵くらい描けないと難しいんじゃない?と指摘されたあと、自分は仕事でいろんな絵を見てきたからと言い訳されたときのこと。

TwitterやYoutubeなどSNSの引用やシェアでしか喋れないのに、価値観の違いを認められずにいろいろ言われたときのこと。

盛和塾の教えをしつこく進めたり、自分の望むようなことを強引に押し進めようとしたり、他人の事業を馬鹿にするような人に、私のやり方が気に入らないからか、あなたは人の話を全く聞かないとか、あなたは我儘だと言われたときのこと。

好き嫌いや思い込みが激しいことをまとめた代名詞として、イスラム主義みたいな思想だとあらゆる方面で差別されたときのこと。

今の自分のままでは他のところでもやっていけないとか、人に騙されるだとか、無駄な心配をされたこと。

単なる価値観や視点が異なることで、そこから新しい気付きややり方を見つけられるだけのことなのに、他人のやり方を間違っていると言わんばかりにあなたは傲慢だと言われたときのこと。

チームのために色々考えて、たくさん悩んでも、人が説明する最中に平然と笑われたり、些細なことで文句を言われたり、誰も求めてもいない暴言を飛ばされたこと。

全く話が通じないどころか資料すら無視されて、同じ話の繰り返しばかりだったこと。

本当はもっといろいろあったけれど、多分きりがなくなる。

今思い返すと総じて「鏡を見ろ」と言わんばかりだったけど、なんかよく頑張ったなーと思う。鏡が壊れているなら代わりに買ってプレゼントを叩きつけてやればよかったと思うくらい、ジョークに変えることはできそうだ。

私もだいぶ強くなったのだろう。そして、今まで言われたような言葉はありがたく全て反面教師にさせていただいている。

すまんね。当時嫌だったことと同じことは意地でも他人にせんのだわ。今は知らんけど、あんたらと私は違うから。

ここ数日の出来事を考えながら書いたけれど、自信が抉れたはずのところに響くような痛みがないことには結構驚き。

とりあえず、頑張っていきましょー笑