自分にできないことを私に重ねたり、押し付けたりしないでほしい

ちょっと前に友人と話していたときに、過去に関わった他の人らへの本音がポロッと溢れた。

私のことを下に見たりとか、誰も責めていないのに責任を重く感じて他責にしたりとか。

私も私で相手や周りの場を持つために会話の終わりまでやり過ごす方を優先したり、責任を重く感じすぎて自責しすぎなときもあるけれど、タイトルの通りのことは嫌だと思う。

時に納得いかないこととかあって不貞腐れたりで、不満の行き場がないことにはいくらでも付き合うけども、自身をできる人間だと見せたい思考が働く場合にはコミュニケーションに違和感が生まれる。

「自分にできないことを私に重ねたり、押し付けたりしないでほしい」と思うようなコミュニケーションが数回程度ならいいけれど、対私に限らず大概人間関係に支障を起こしていらっしゃるので、どうしたものかなーと思う。

できないことがあるなら素直に受け入れよう。誰も責めていないし、そこから伸びていけばよいよ。

私もできないことを受け入れて、以前よりも随分成長しましたよ(´・ω・`)

これ、できないとね、実は周りを感情で動かすタイプになっちゃうんよね。

「クリエイター業界の契約内容や業界構造が不透明すぎるんだわ()」

クリエイターは個人でやりたいね(´・ω・`)

第三者は黙れとかそういうレベルで収まる問題じゃないくらい、一部のクリエイター業界の契約内容が怪しいし、労働者側が争っても仕方ないところを争って終わらせてしまうほど業界構造が不透明で不安だから、ITや物流のように行政が介入する動きを見せてほしいところ。

個人の交渉は必要だが、クリエイター業界の場合はブラックなことをグレーどころかホワイトだと押しのける企業がものすごく多そうな印象。漫画の表紙やVTuber企業の下請法違反のも、労働者側で言い争ってしまうことではないし、個人の交渉も必要だが、発注側や仲介の企業にも是正されなければならないところがあるよね。契約どないなっとんねん()

論点によっては、SES契約のようなクリエイター向けの契約も新たに必要になるかもしれないけれど、「クリエイター業界、そもそもちゃんと必要に応じて契約書を作ってる?」と不安になるんだが。

昔から個人でのし上がりこともできるぶん根性論で仕事を回してそうだし、契約書を作ることへのツメが甘そうな印象。ただし労働者の中には、労働基準法を無視してまで作りたい経営者タイプの人もいるから、そこんとこのバランスが難しいけども。

契約として不安を抱える部分も「なるべく個人作品や、ビジネスがそこまで稼働していない商業作品を追いかけたい」と思って動いてしまうポイントではある。いま多様性社会なんだから特に。

見えない力関係で思い出したこと

閲覧は自己責任

例のコンサル社員が「狩猟の民ではなく農耕民族の方がいい」と言って、社長や他の人が案を出しても「そうじゃないなぁ」みたいに返されたことがあるんだけど、コンサル社員のやりたいことの言いなりみたいになってておかしかったんだよな。

何かに付けてコンサル社員が他でコンサルを結ぶ会社に案件を引っ付けようとしてたし、向こうの会社に罪はないと思うけど、ズブズブ感はあったね。

組織に属するのは自由度が狭いというよりも、コンサル社員が納得しないものは許さないみたいな感じになってたから。

コンサルタントについて詳しくはないけど、仮に社内に属してコンサルするのはおかしくないとしてもコンサルが真っ当にやっていたとしても、はたから見たら見えない力関係が生まれる。

もし社長相手にコンサルしてて自分がそのコンサルに嫌われたら、社長への提案で上から謎の圧をかけられることもあるよねって過るんよ。肩書きだけで何もしてなかろうと、同時に権威が生まれるからまじでやめてと思う。

それでいて思想の押し付けや、仕事に関してはパワハラまでしてたので、そういう人から「あなたは我儘だ」だの「人の話を全く聞かない」と言われたけれど、あんたがやってることはマニピュレーターだから言うことを聞くわけねーだろっていう。

会議する前の人らの悪口を平然と言うのとか、それでいて会議ではいい顔して、初対面なのに向こうにもなんか申し訳なかったわ。

悪口で仲間を作ろうとする奴はまじで嫌い。そんなの敵しか増えねーから、うっかりした拍子に報いを受けないよう気を付けろよっていう。

Twitterは二度とやらない(オープンなSNSも)という話のときにポッとこぼした言葉

気まぐれ1日日記一覧の方に書いていたけれど、これは私が後々読み返すかもしれないということで、ブログの方に持ってきた(..)

話の内容は、過去の傷についても触れている。

強い言葉が多いので伏せています

自分の言葉で言えないから(逃げ道を作るため)、YouTubeやTwitterでのスクショやシェアを使って意思表明されるのが本当に面倒くさいです。

私がTwitterをやってた頃はそういうのが本当に無理だった。自分の言葉で批判できず、シェアで逃げ道を作って批判する人間の存在を知らなかったから驚いた。

シェアだけでコミュニケーションを取ろうとするのに、私に仕事やコミュニーケーションが出来ないことを指摘するのはさすがに乾いた笑いが出る。鏡を見て。

Twitterに興味ないし自分のやりたいことがあるからというのもあるけど、さすがに同族にはなりたくないから二度とやらない。SNSにどっぷり浸かった人ほど偏った思想のことをやらかす上に他人の考えを無視して攻撃的になるから、私は二度とやらないよ。

私だって他人をテンプレート的に見るだけで、相手の言い分を一切聞かずに批判したいけれど、そういう人間にはなりたくないからTwitterや他のオープンなSNSからは離れてる。

人の話を聞けない上に自分の言葉で伝えようとせず批判するのに被害者面になるので、私はそういう人間にはなりたくないです。


Twitterのよいところをプレゼンされたことがあるけれど、嫌悪感はもうちょっと根深いところにあるから無理。どれだけメリットを挙げても、私の心の傷の根深いところまでは届かないし、問題の改善の見込みはない。

切り捨てる発想も大事だよ。自分の価値を下げてまで不本意に他人に振り回されて無理をするよりも、関わる人間を選ぶ方がいい。

自分にとって耳障りのいい言葉は聞こえたり、都合よく変換できるみたいだけれど、目の前で話す人の言葉は全然届かないし、相手のやりたいことや考え方を無視して耳障りがよかったり都合のいい言葉を気楽にシェアしてくるんだね、と思うから。

自分らが平然と差別や批判をしといて、価値観が異なるものは聞く耳を持たず、他人に潔癖を求めるようなもの、ものすごく卑怯だわ。

…といった私の心の傷には全く響かないから。改善も困難でしょう。

目の前で話す人に私の心の傷の話はしたくはないし、私が向き合うものとして処理したいから、踏み入ってもらいたくないし、何なら迂闊に巻き込みたくはない。

私はTwitter及びオープンなSNSはやらないし、使うというだけで人を批判しないし、まあこれが綺麗な妥協点じゃないの?って思う。

私自身の言葉に対する、個人的な感想

心の傷とかはあまり言語化しない&他人にあまり見せようとしないのもあり、当時どういう感情を抱いていたのかを私自身が濁してしまうことも多く、本音が意外な瞬間に漏れたりする。

なんとなく、ようやく本音を吐いてくれたなと言う気持ちもある。

内容について、言葉は少々キツイけれど、自分の本音を濁して引き下がってしまったり、耐えることの方が多い私としては、当時の私の本音が伺えたのが嬉しい。

私の問題で苦しいことになると、私自ら蓋をしてしまいがちだ。私個人の感情で他人に気を遣わせたり、選択に迷わせたりするのは嫌いなのだろう。

好きだと話す相手の目の前で「私、それ嫌いっすよ」みたいなコミュニケーションはあまり取りたくない。他人はまあとして、私がそういうコミュニケーションを仕掛けたくない。
好きな人(LIKE)が何が好きだろうと、私は好きな人が目の前で楽しそうにしているのが好きだ。

…余談だが、最近イラストを有償依頼をしたときに「好きな人(LIKE)が目の前で楽しそうにしているのが好き」というのを改めて実感した。

私の依頼は、相手が好きなキャラクターを描いてもらい、そのキャラクターについて語ってくれという、ちょっとだけ変わった依頼だ。相手が「マイナーですけどいいですか!?」とキャラクターを選別したところ、見事に知らないキャラクターだった笑

仮に相手が好きなキャラクターが私の嫌いなキャラクターだろうと嫌悪感なく楽しめたと思う。キャラクターが何であろうと、なぜそのキャラクターが好きなのかとかを嬉しそうに話す相手を眺めるのが楽しいから、私は今の私のコミュニケーションのままでいこうと思った。

トラウマはドスをキメる記事で克服するのもアリ

トラウマは繰り返し思い出すことで楽になるのだけど、トラウマの中には「蓋をしておきたい」と思うものもそれなりにある。

なぜ蓋をするかというと、制御が難しい強い感情まで掘り起こされてしまうからだ。

蓋を開けるのは今ではないと思って蓋を閉めることもありだけど、いつかは蓋を開けて掃除をしないと、蓋に近寄れないせいで蓋の周りにあるものを取れなかったり、放置してても蝿しか飛んでないし(´・ω・`)

でもいざ開けると「もわぁ…」となって、ものすごくしんどい。開けて掃除しなきゃ、周りのものすら取りに行けないとわかっていても、蓋をしたトラウマの「もわぁ…」は気を狂わすレベルである。

蓋を開けるとき、悲しみが強いか、怒りが強いかで、対処方法は変わると思う。私の場合は怒りの方が強かった。

怒りのコントロールは難しい。悲しみよりも怒りの方が、誰かの前に直接吐き出したくない。中には感情に当てられて弱ってしまう人もいるだろう。

けれども蓋を開けた先にあるこびり付いた汚れは、いつかは掃除しないといけない。悲しみよりも怒りの方がつらい。たとえ一線を越えたのが敵側であろうと、過去となった今は私から一線を越えてはならないのが対処の難しいところだ。

それならいっそ、過去を標的に攻撃的になった方が楽になるかもしれない。というわけで、過去に対してドスをキメることにした(?)

過去だから今じゃない。仮に今も同じなら…それは知らないし、近付いて来ないなら私には関係ない。

過去は変えられないけれど、未来は変えられるので、自分の過去と決別しながら未来に向けて残す方が、トラウマだろうと経験として活かせるだろう。

……………。

ようやく蓋を開けた掃除が進んだ。

周りにある物に手を伸ばすことはできたが、残念ながら使い物にならなくなっていた。部分的に使えないかと考えたが、新しく買い直すつもりで取り組んだ方が良さそうだ。

掃除の次には除菌作業が必要だが、これがなかなか大変である。見たくもないものを調べるし、除菌が難しければ殺菌を検討する感じがなんともしんどい。

トラウマから離れて元気になろうと、蓋をしたトラウマはいつか片付けないといけない。自分が犯した過ちなら墓まで持っていけるかもしれないが、他人が犯した過ちの掃除はものすごく面倒くさい。